「書くこと」が、私の“生きる”になった。
まっすぐ来れたわけじゃないけど、たどり着いた今の場所。
このプロフィールでは、そんな私の“これまで”をご紹介します。
1. はじめての「書くこと」

小さい頃の私にとって、パソコンは最高の遊び道具でした。
「システムエンジニア」の父が家に置いてくれていた、当時としては珍しいデスクトップパソコン。
電話回線につなぐと、あの懐かしい「ピーガガガ……」って音が鳴る、アレです。
お気に入りは「お絵描きソフト」と「タイピングゲーム」。
描いたり、打ったりしてるうちに、自然とパソコンが“自分の場所”になっていきました。
遊びの延長で、ちょっとした文章を打ち込んでみたり、ホームページを作ってみたり。
気づけば、私は“書くこと”が好きになっていました。
そのときは、将来ライターになるなんて、夢にも思っていませんでしたけどね。
2. 看護の世界で見えた「違和感」

高校を卒業して、大学の看護学科に進学しました。
理由は、障害児看護がやりたかったから。
子どもの頃から仲のよかった友人に知的障害があり、一緒に過ごす時間が大好きでした。
「これが天職かも」と思っていたけれど、大学で待っていたのは、ハードな勉強の日々。
期待していた障害児看護の授業は、ありませんでした。
実習もハードで、正直しんどかったです。
けれど、“誰かの役に立ちたい”という気持ちは変わらなくて、教授に相談した結果、重症心身障害児者の病院へ就職が決まりました。
最初の職場は、3交代制の病棟勤務。
日勤→帰宅して仮眠→深夜勤務…というスケジュールを繰り返すうちに、心も体もどんどん削られていって、ある日、不眠症になりました。
布団に入っても、一睡もできない夜。
何かがプツンと切れたように、私は職場を去る決断をしました。
「悔しい」と思う一方で、「このままじゃ、自分が壊れる」とも感じていました。
3. やっと見つけた「天職」と呼べる場所

転職先を探す中で、ある先輩看護師が言ってくれました。
「保健室の先生、向いてるかもよ」
そのひとことで始まった、保健室勤務。(元々看護師の他、保健師と養護教諭免許も持っています)
最初は戸惑いましたが、やってみるとすごく楽しくて、しっくりくる。
学生の何気ない相談に耳を傾けたり、保健だよりを作ったり。
“日々の生活のそばにいる人”として、自分の存在が誰かの役に立っている感覚がありました。
「これが天職だ」
そう思ったのです。
でも、人生は止まってくれません。
二度の妊娠・出産を経て、保健室を離れることになりました。
4. 守りたい人がいて、私は「家にいる」と決めた

専業主婦として育児に専念しようと決めた矢先、夫がメンタル不調で休職。
このとき「働き方」を根本から考え直しました。
訪問入浴や老人ホームの単発バイトもしたけれど、家族と離れている時間が、どうしても不安でした。
「私が家にいないと、この家はもたない」
そう強く思ったとき、もう外では働かないと決めました。
そんな中、ふとしたきっかけでライティングに出会いました。
最初はクラウドワークスで、小さな看護師転職記事を書いたのが始まり。
2回で契約終了になったけど、「もっと上手くなりたい」と思えたんです。
手探りで、Kindleで本を読み、ブログで保健だよりを配信したりもしました。
どこかで、「誰かの役に立つ言葉を届けたい」気持ちがずっとあって。
気づけば、私はまた“書くこと”に夢中になっていました。
5. 書くことは、生き方そのものになった

今では、医療・健康を中心に、取材記事やSEO記事、プロフィール文作成の仕事をしています。
ホスピスの取材では、すてきな音楽を聴き穏やかになる入居者さんの表情を追いながら「こういう風景を、もっと世の中に届けたい」と思いました。
文章を書くときに、私がいちばん大事にしているのは、
「なぜ、わざわざライターに頼んでくれたのか」を考えること。
自分で書けないわけじゃない。
でも、“誰かの思いを、ちゃんと形にして、届くように整える人”が必要なときってあると思うんです。
私は、読み手の「知りたい」に応える構成を考え、
クライアントの「これだけは伝えたい!」という情熱を、
温度を保ったまま言葉にするのが得意です。
器用ではないので、時間もかかるし、何度も書き直します。
でも、そうして出てきた文章に「お願いしてよかった」と言ってもらえるとき、
「ああ、私は今、自分の場所にいる」と思えます。
夢は、夫に「もう無理しないで」と言えるようになること。
そのためにも、私は書き続けます。
だって、今度こそ見つけたんです。
これは、私にとっての天職です。
“なんとなく書きたい”を“ちゃんと伝わる”に変えるお手伝い、しています。
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